![]() 『今度はどこへ行く?』いつものこの問いの後、『無頓着』のフレッドと『猪突猛進』のイアンがいい加減な計画で自転車冒険旅行を決行した。梅雨が南から急速に近づいていたので、九州方面への旅行は馬鹿げていた。そこでひらめいて目を向けたのが北の北海道。「稚内まで北上して、そこから利尻島へ船で渡りたいなあ」と僕は提案したが、それに伴う時間と距離が今回の計画には好ましくなかった。二人ともこの逃避旅行に3泊をやりくりするのがやっとだった。「それじゃ、千歳空港から自転車でスタートして、その辺の山々を登ってから海岸沿いに、積丹半島を一周するってのはどう?」「それがいい。」とフレッドが答えた。彼は決して細部にこだわらない。そして、『この計画』はちゃんとやり遂げられた。
【1日目】 【2日目】 翌朝、出発する二人を迎えてくれたのは灰色の空、雷、シングルモルトでもうろうとした頭だった。その日予定した2つの走行を雨の中でしようかしまいか迷っていたが。朝食を済ませ、別れを告げた後、僕らは幹線道路に出ようと向かった。しかし、交通量の多さに驚かされた。たくさんのトラックが猛スピードでそばを通り過ぎて行った。北海道の幹線道路は日本で最悪の交通事故数と死亡率を記録しているので、特に注意を払う必要があることがわかった。 20q行ったところで初めてのトンネルに入って行ったが、晴れた日でも心地よい経験ではない。僕が断じて理解できないのは、エンジニアがトンネルの両側に歩行者や自転車用に1mくらいの余地をなぜ設けないのかということだ。背後から轟音を上げて迫ってくるトラックに、実際に自分が見えているのかどうかを心配することにはかなりろうばいさせられる。 ![]() 道に沿って走り続け、急な流れの川沿いに、いくつかの低地を通り抜けて進んだ。フレッドが川岸を下って行きたいと言った時、僕は直感でわかった。ほんとうにしたいことは冷水飛び込みなのだと。数分後、僕らは浅瀬の急流を歩いて渡り、小川の中ほどにある1つの大きな岩に登った。十分な深さがありそうで、あまり危険ではなさそうだったので、バースデースーツに着替えて(裸になって)、不朽の名せりふ『ビリの奴は腐った卵!』と叫んで飛び込んだ。水温は零度をわずかに上回る程度だったから、この氷のようなショックはシングルモルトスコッチでもうろうとした頭と眠い目をしっかりと覚ましてくれた。30秒から1分間じっとしているのが難しいほどの冷たさだったけれど、二人とも飛び込むごとに、毎回、ますます面白くなった。これまでの僕らの冒険旅行を振り返って、『小川の飛び込み』なしに完結した自転車旅行は1つもなかった。ひと休みして元気が回復してから、僕らは再び道路に戻り、Bifue Pass(峠)を登った。僕らの頭が前よりはっきりしていたので、上り坂は思ったほどたいへんではなかったようだ。数q登った後に、やっと、長く続く下り坂が始まった。その道をたどって行くと『世界最大のログキャビン団地』(少なくとも看板にはそう書いてあった)に着いた。どこで最大のログキャビンかは確認できなかったが、それらはとても大きく、観光客向けのスタッフだけでなく、ギフト商品や珍しい小物商品の店も多く入居していた。僕らは新鮮な北海道ドリンクヨーグルトと軽食を楽しむ間だけ滞在した。 さらにはっきりした頭と満腹のお腹で、僕らはサイクリングを続け、いくつかのもっと長い坂道を登った。その道を30qほど行ったところで、僕は今にも倒れそうな一軒の古い家を見つけた。僕にはとてもユニークで写真に撮る価値があるように見えた。思い切って幹線道路から外れて、見捨てられた古い家の写真を撮るために近寄った。僕は荒廃した建物の写真を撮るのがすきだ。そういう建物は語るべき悲しい話を持っているように思えるから。田舎の人口の多くが都会に流れていき、後に残る空虚な町や村のような、白黒の時代からの、そういう建物を北海道でたくさん見た。 僕が自転車を降りて、古い農家を調べている間に、フレッドは別の面白い古い建物を見つけていた。それは19世紀の学校の校舎で、幹線道路から数百メートルのところにあった。使用されているみたいだから、「いったいどんなものだろう」と僕らは見に出かけた。元の双葉小学校は学校として閉鎖されて10年間経っているが、今は臨機の才ある家族によって『ホームメード博物館』に一変していることを知った。すぐに家族の長のヤスオに会った。彼は妻のマイコと2才の息子とともに『学校』に住んでいた。テーマごとに展示された、昔からの数百の工芸品がいっぱい詰まったすべての教室を僕らに見せてくれて十二分に喜んでいた。ある教室は農機具、酒造り、酪農に向けられ、別の教室は明治時代の消防士、警察官、役人の制服などに、また、ほかの教室は地元の文化やフォークロア(民間伝承)に向けられていた。 フレッドと僕はとりわけ『ウエスタン・バー』の教室が気に入った。そこには競技用サイズのビリヤード台と60、70、80年代の見事なLPコレクションが揃っていた。外のドシャ降りが着実に激しくなっていたので、ヤスオは今晩泊まるかとたずねてくれた。僕らはその時懐かしのロックンロールに本気ではまり込んでいたし、8ボールコースのわくわくするゲームを始めるところだったので、ノーと言えなかった。 ヤスオは幸せな男だった。かつてはアンティークビジネス業の会社に勤務する会社員だった。今、彼は愛らしい若い妻といっしょに新しい人生と新奇なアイデアを始めようとしているから、大都市の物事が彼には合わなかったようだ。そのアイデアというのは、北海道でも全国のほかの場所でも、使われていない学校を旅行者向けのノスタルジア・ストップに一変させるというもの。そこでは、人々は古き良き時代の日々を探し求めて思い返すことができるだけでなく、食事、入浴、宿泊、いくつかの純田舎風もてなしを楽しむ(僕らがしていたように)こともできる。フレッドと僕はヤスオのライフスタイルに感銘を受けた。彼にはビジョンと成功する気迫があると感じた。彼の家族はこれまでに会った家族の中で一番幸せなように思えた。周囲の環境に満足して、自分にも世の中にも心穏やかで、自分たちののどけさを悩ませ、じゃまするテレビはない。『ダイニングルーム』の教室で僕らが話しながら夕食を食べている間、足元の床の上をアヒルの子が走り回っていた。それらのアヒルの子はかわいそうにきょうだいの1匹を旋回する北海道カラスにさらわれて、前日に『養子にしてもらった家族』だった。食べ物のかけらをついばみながら、床の上を可愛く落ち着いて小走りに動き回っていた。飼い犬に見守られて、飼い猫には完全に無視されて。この双葉小学校はなんという楽しい、幸せな、快い場所なのだろうと僕は思った。 ヤスオと彼の家族といっしょに地元の温泉に行った後、僕らは学校に戻り、夕食にすばらしいスパゲティと飲み物をいただいた。それから、ワインを数本空けた後、『本当の楽しみ』が始まった。ヤスオは何でも屋の主人兼企画者であるだけでなく、書家でも妖術師でもあることがすぐにわかった。彼は僕らの性格の抽象的なオリエンテーション(方向定位)を肉薄の心理分析で『占って』から、僕らの人格を日本語の文字で書いて、詩のように上手に表し、出来上がったものをおみやげにくれた。 それから、最後の所作に、彼はフレッドが言う "twilly-spinner"を取り出した。それで、頭のてっぺんから爪先まで、身体上の異例がないかスキャンした(精神上の異例でなくてよかった、いや、それなら鎖を振り落としていただろう)。僕は『要注意』の悪い消化管が1つと臼歯が1本あると『診断』された。一方、フレッドは脊柱が曲がっていると告げられた。僕らはヤスオのその才能に感服した。彼が披露してくれたことは『完璧』と思える1日を締めくくるのにふさわしいすごい催しだった。朝、僕らは特に計画もなく出発したが、夕方には成り行きと幸運のおかげで、想像もしなかった人々と物事に出会っていた。【3日目】 3日目の朝は太陽が迎えてくれた。前日、目標にしていた地点の岩内のできるだけ近くまで、ヤスオは自分のバンで僕らを連れて行って、前日走り切れなかった距離を穴埋めするのを手伝うと言ってくれた。僕らは同意し、彼と彼の家族といっしょに海岸に向かって40qのドライブをした。 途中に羊蹄山(北海道の富士山と言われる)を見た。完璧な円錐状の火山で、まだいく分雪に覆われていて、美しかった。僕ら一行は道路わきの旅行者用エリアで止まった。そこでヤスオが話すには、アジアのあちこちから人々が透明な澄んだ山の湧き水を採取し、飲むためにやってくるということだった。山の雪解け水から引いてきたタダの水をプラスチックボトルに詰め込む中国人旅行者でいっぱいのバスが1台停まっていたから、それは十分確かだ。 ヤスオは何軒かの店主にうまく掛け合って、その辺に置いてあったタダの木材をいくらか分けてもらった。それを学校の浴場を作るのに使うと言っていた。最後に岩内に着いてから、僕らはヤスオと家族に、いつかまた来て訪れることを約束して、さよならを言った。ヤスオ一家のもてなしに僕らは心底感動した。また、愛情と家族の大切さを僕らに思い起こさせてくれた。ヤスオたちと別れてすぐに僕らは日本の北部にある原子炉の1つを見ることになっていて、見学に立ち寄った。積丹半島東側の泊にある原子力発電所にはりっぱな訪問者用センターがあった。そこで、僕とフレッドは核分裂と原子力発電の背後にある工程を説明するすべての展示といくつかの先端技術を見て回った。日本は自国のエネルギーの約30%を核施設から作り出しているが、この考えをすべての日本人が好んでいるわけではない。僕らは自転車で走っている間、幹線道路沿いに抗議の掲示板をいくつか見かけた。 ついに、積丹の海岸を走り始めた。天気は快晴。岩だらけの海岸線はじつに壮観で、僕らは景色を満喫した。しかし、道筋にたくさんのトンネルを通らなければいけなくて、そのいくつかは最良の海岸地区 を見るのを妨げている。その日の残りを僕らは海から突き出た一枚岩の削られた尖塔を眺めるか、全速力で長い寒いトンネルの中を走り抜けるかのどちらかで過ごした。 いくつかのトンネルは3q近い長さがあった。出発地点からおよそ80qの自転車走行の終わりにやって来て、二人ともうれしかったことは言うまでもない。トンネル内を冷たい向かい風で走るのに疲れていたので、温かいお風呂に入りたかった。僕らは日中の早くから、ホットドッグを買って、海岸で火をおこし、懐かしの『ウィーニー・ロースト』をしようと決めていた。積丹半島の先端で地元の小さな食料品店を見つけ、ウィーニーの材料、いか、ビール、酒を仕入れた。それから、海岸の温泉宿を探し、チェックインした。素泊まりで夕食なしの場合は通常4000円くらいで断然安い。温かい温泉でゆったり楽しんで、腰のこわばり(長距離を自転車走行するといつもそうなる)をほぐした後、宿の女経営者に、「海岸で火をおこしてホットドックを焼きたい」と言ったら、「それより、うちのバーベキューセットを使っていいよ」と親切に言ってくれた。 ![]() 僕らは彼女の言葉に甘えて、火鉢を砂浜に持ち出し、石炭を燃やし始めた。さらに彼女は何人かの宿の従業員にも準備を手伝わせてくれた。僕らは彼らの心遣いに感激しつつ、腰を下ろし、暗くなるまで焼いて、飲んだ。 海からの清々しいそよ風、すばらしい環境、おいしいバーベキューがすでに忘れがたい一夜にしてくれた。しかし、こういう行き当たりばったりの自転車旅行ではいつものことながら、夕方の後半に自分たちに起ころうとしていたことに、僕らはまったく準備していなかった。 浜辺で僕らが満ち足りた気分でウィンナーソーセージを焼いて、酒をちびちび飲んでいるところへ、「旅館オーナー主催の地元の飲み会に僕らが招かれた」という知らせが温泉旅館から来た。ほかに付き合いの予定は何もなかったので、僕らは喜んでその招待を受け、地元の『スナック』と言うか、70年代様式の和風『酒場』を訪れた。 僕らが着いたとき、会は盛り上がっていた。小さなバーに20人ほどが込み合っていた。みんな焼酎かウィスキーの水割りをちびちび飲んでいた。『社長』という人がこの会の主催者で、札幌の建設会社のオーナーであり、温泉旅館も経営していた。みんなの目つきで彼はひとかどの人物で、神話か伝説であるように見えた。彼が「ジャンプしろ!」と言ったら、周りのみんなは「どれくらい?」と言うのは明らかだった。濃い黒のサングラスをかけた『社長』は2、3曲終わるごとにスピーチをした… 彼がマイクを握っている間は、部屋の空気が沈んでひどく静かになった。 断りきれずにカラオケで数曲歌ったが、僕らが宴会で疲れさせるガイジンではないことを疑う余地なくみんなに証明した。その後、フレッドと僕は席に戻り、焼酎をちびちび飲みながら、女の子ら(平均年齢66歳)とおしゃべりをした。一人の年配の男性がやって来て、僕の横に座って、こう言った。「これが積丹のコミュニケーションだ!」こういう社交上の出会いが経済の沈滞した田舎の町同士を支え合う『接着剤』となっていることがすぐにわかった。宴会ではだれもが飲んで、大学生よりも派手にわいわい騒いでいた。もしかすると日常生活の大変さを一時的に忘れること以上の何かだったように僕は思う。 【4日目】 短いけれど日に日に思い出深くなってくる僕らの北海道自転車旅行の、ついに、4日目の朝、夜の眠りから目覚めた。泊まった宿からさほど遠くない積丹国立公園に向かって出発しようとした時、前夜からのカラオケの騒音がまだ僕らの耳に鳴り響いていた。 いい天気だったが、まだ『オフシーズン』だったから、国立公園への道路には車がほとんどなかった。公園へ入るちょっと『心臓破り』の急な坂を登った後、自転車を止めた。踏みならされた自然の小道を見つけ、坂沿いにそれをつたって岩だらけの海岸の上にやって来た。うららかな絶景の海岸のハイキングルートに沿って、僕らが曲がりくねって進んで行くにつれて、空は青く、そよ風は優しく、鳥は野原でさえずっていた。 「姫君」と名付けるのがぴったりの、海から突き出た巨大な岩の造形をスナップ写真に撮るために止まった。 これまでに行ったことがある日本で最高に美しい場所の1つを見つけたことに二人とも同感だった。 その朝は晴れ渡っていた。自転車に戻り、旅を続けたが、途中、止まって、捨てられた古いバスを見た。明らかに昔は活躍していたのだろう。その後、竹林のセミが不協和音で合唱するのを聞いた。僕らが猛スピードで走り去る車の中にいたら、セミのシンフォニーはおそらく僕らに認知されなかっただろう。これらの出来事は坂道やきつい運動のことを忘れて、自転車旅行がもたらす小さな快い驚きを楽しむだけのささやかなひと時だった。 数時間後、僕らは小樽市でこの旅を完了した。そして、また1つ成し遂げた偉大な自転車旅行を冷たいビールと北海道流に小鉢で出されたウニで祝った。いつものように、毎日が発端から忘れ難い日だった。オフィスと都会の生活に再び戻って行かなければならないのがいつも悲しいけれど、ほんの数ヶ月後には、おなじみの、『今度はどこへ行く?』を互いに問いかけることを僕らは知っている。最後に、この旅行記を80歳の日本人サイクリスト、原野亀三郎氏に捧げたい。彼は長野県の小川村に住んでいたが、トンネルのカーブした箇所を自転車で走っている時に、トラックに追突されて亡くなった。原野氏は独自の全国自転車旅行に向けて昨年の2006年4月に長野を出発していたが、事故現場は自宅までおよそ40qの所だった。彼はあと2、3日以内にそこに到着するはずだった。彼はサイクリングとそれがもたらす自由を愛した勇敢な老人だった。 |