それはいつものように始まった。2枚の飛行機の切符、2台の自転車、2人の男、計画なし。しかし、それが自転車冒険旅行を始める最善の方法だということは経験が示している。事前に地図を調べて、まだ訪れたことのない日本の地域で、海が見える、空気の新鮮な、交通のほとんどない地域を探して、僕らは本州の北端を通る秋田から青森へのルートに決めた。元自転車競走の選手で、オリンピックのビール飲み競技の選手でもあるフレッドは、その地域に以前住んでいたことがあり、こう言っていた。「道路は静かで、景色は壮大で威厳がある。」2人とも、東京から数日間逃避して、また、自転車に乗って現実の生活に戻ってくることを楽しみにした。



陽射しあふれる9月の朝(たまたま僕の誕生日)、僕らは飛行機で羽田を発ち、秋田に向かった。秋田は日本で最も有名な犬の産地であり、また、超美人の産地でもあるらしい。空港の外で地元のタクシー運転手らと話をした。彼らは乗客待ちに暇を持て余していたので、自転車を組み立てている僕らを見に近寄って来た。「どこへ行くんだ?」と強い秋田なまりで尋ねられた。「ここから青森へ…」とフレッドが答えると、彼らは笑い、その顔は共通して「物好きな変わり者にちがいない」という表情だった。「ところで、ここは秋田美人の土地だと聞いたが、どこで会える?」と聞くと、一番近くの運転手がこう言った。「俺たちにはわからない。長い間会ったことがないし、いるとは思えないよ。」皆で笑った後、僕たちは旅路についた。

 


道路を下って行って、それほど遠くないところで最初に目にした光景は、秋の陽射しの中で金色に輝く稲穂が波打つ田んぼだった。刈り入れ作業の真最中で、農家の人は好天を最大限に生かそうと、コンバインで忙しく働いていた。

 


浅い川に架かった橋の上で、何かを待っている年寄りの男の人に出会った。「何をしているのですか?」と僕らが尋ねると、その老人は「よく見てなさい。」と言って、次の動作に移った。鎖の錘のついた網を掴みあげて、橋の上から下の川へ投げ入れた。驚いたことに、その人がゆっくりとその網を引き上げると、中にはぴちぴち跳ねる獲物の鮎が現れた。投網と呼ばれるこういう魚の獲り方は、東北のこの地方ではよく行われる。フレッドが「よく似た方法でカナダの原住民も網で魚を獲る。」と話した。鮎は小さいほうがおそらくてんぷらに、大きいほうが刺身に使われたようだが、網から獲れたばかりの鮎を両方で試食させてもらった。僕らにはとてもわくわくする体験だった。

 


そのうちに、日本海に達し、海岸線を北上してペダルを漕いだ。秋田市周辺は交通量が激しくて、主要幹線道路では注意が必要だったが、市街地から少し離れたとたんに、車の数がまばらになり、まもなく、僕らの自転車は海岸沿いの道路を静かに走った。いつものように、その日の晩にどこで宿泊するかはっきりわからなかった。でも、基本的に、70qは初日に走る距離としては充分だし、男鹿国立公園のどこかで泊まろうと考えた。それで、ペダルを漕ぎ続けて、夕日がまさに日本海に沈もうとするところで、門前という男鹿半島のちっちゃな漁村に着いた。そこでその晩の宿を急いで見つけた。僕らが自転車から降りている間に、『絶妙』とも思えるタイミングで、夕闇が暗闇に変わっていった。

不意に泊まった宿について僕らはなにも知らなかったが、そこは海鮮料理のご馳走を盛大にふるまうことで有名な旅館だった。僕たちは夕食を平らげるのに3時間を費やした。その旅館に泊まった唯一のほかの客は孝明と千賀子という地元の二人連れだった。楽しい夕べ(僕にとっては44回目の誕生日)のひとときに、カップルは秋田県についておもしろいことをいろいろ話してくれた。

 



早起きし、さん然と輝く朝日を浴びて翌日のサイクリングの出発準備をし、仕上げに海王ネプチューンにぴったりのシーフードの朝食をとってから、僕たちは男鹿半島を回る海岸道路をたどり始めた。いくつかの険しい坂が最初の曲がり角付近で待ち構えていて、僕たちはあっという間に過呼吸状態に陥ってしまった。でも、そのうちに、道端で自家製のアイスクリームを売っていた小柄な女のお年寄りに出会った。からからに乾いた喉にとってはまさに医者の命令だった。そこで、僕らは堂々とおばあさんのその日最初の客になった。彼女は喜んで地元特産品のメロン味の冷たいでっかいのをコーンにのっけてくれた。最初の1個をむさぼるように食べた後(二人とも舌が凍ってしまっていたが)、『おかわり』にノーと言えなかった。この冷たい思いがけないご馳走をかみしめて味わっている時、ある店のオーナーがやって来て、当地とその一番の有名人『なまはげ』について話をしてくれた。

『なまはげ』は森から出て来て、村にやって来る秋田の伝説の悪魔の生き物だが、その顔の表情はお祭り騒ぎの気分でいる時の僕の妻のそれとそっくりだ。大晦日から元旦にかけて、男鹿半島の農家の家族は幼い子供たちを怖がらせる恐ろしい悪魔の『なまはげ』に押し入られる。今はだれでもいろんな種類(耳かきなど)の『なまはげ』のおみやげを地元の店で買える。さらに海岸線を北に進むと、入道ヶ崎にやって来た。そこは男鹿北部の岬で、海に面した広大な平原があり、たくさんのちっちゃな店で地元の特産品(岬で焼いたいか、肉付きのよいハタハタ、地元の水域でしか獲れない珍味の魚など)が売られていた。ここは柔らかい陽射しと海からのそよ風に包まれて昼寝をするのに十分値する最高の場所だと僕らは決めた。

 


頭上の海鳥の鳴き声で昼寝から目覚めた僕たちは秋田と青森の県境に向かって再び北へ出発した。能代市への道を進むにつれて、もっと心臓破りの、息切れさせる山道、海の景色、刈り入れ風景が僕らに迫ってきた。そして、やっと、日没直前に八森という海辺のちっちゃな村に疲れてサドルずれでひりひりして到着した。開け放された窓から三味線の音が聞こえてきて、僕は村の民家の前で止まり、聴き入った。東北地方は津軽三味線(リュートのような弦楽器)の本場だ。その音色は催眠状態にさせると僕は感じているが、自分で習おうと考えている。またしても暗闇の中でその晩泊めてくれる宿を探し、1軒の旅館を見つけた。しかし、到着が遅かったので夕食は付いていなかった。そこで、僕たちは町で一軒しかないちっちゃな、壁の穴のような軽飲食店、焼き鳥『やまちゃん』を教えられた。

店の主人のやまちゃんは僕たちを熱心に歓迎してくれた。僕らはさっそく焼き串の鳥肉を食べながら、自分らの旅について、目的地といくらか制限のある日程の話をしていた。そして、残りの160q、つまり、竜飛岬までを、あと1日で、自転車で行くのは無理だということがはっきりした。そこで、やまちゃんが提案してくれた。残された時間で僕らの旅を成し遂げられるように、彼のミニバンで100qほど先の海岸まで僕らを連れて行ってくれると言った。自動車に乗せてもらうのは怠け者のようでいやだったけれど、今回の後方支援は僕たち自身のためではなかったので、僕たちは十三湖まで車に乗せてもらうことに同意した。やまちゃんは十三湖を『Lake 13』と非常にわかりやすく訳してくれた。

 


僕たちの計画の打ち合わせが終わって、まもなく、やまちゃんの常連客の一人が入ってきて席に着いた。樋沼さんという人で、やまちゃんによると、三味線の名手だそうだ。僕は演奏を聴かせてもらえませんかと頼んだ。彼が気持ちよく同意してくれたので、重いケースに入った彼の三味線を取りに行くために、僕は彼の自宅までついて行った。
そこで、やまちゃんが提案してくれた。残された時間で僕らの旅を成し遂げられるように、彼のミニバンで100qほど先の海岸まで僕らを連れて行ってくれると言った。自動車に乗せてもらうのは怠け者のようでいやだったけれど、今回の後方支援は僕たち自身のためではなかったので、僕たちは十三湖まで車に乗せてもらうことに同意した。やまちゃんは十三湖を『Lake 13』と非常にわかりやすく訳してくれた。

 



翌朝、旅館のご主人たちに別れを告げてから、僕たちはやまちゃんと出かけた。またまた、天気はすばらしく、バンの窓から見えるたくさんの風景(呼吸困難になりそうな途中のいくつかの坂など)を楽しめた。散策のために有名な名所の『千畳敷』で止まった。一種の珍しい地質学的な海岸の事象だ。

その後、またバンに乗り続けて、最終的に正午前にちっちゃな町にある三味線博物館に着いた。僕らは中でいろんな種類の三味線とその製作や歴史についての説明を楽しく見て回った。毎年、全国三味線選手権大会が秋田と弘前で行われている。僕は大会で競う気はぜんぜんないが、いつか聴きに行ってみたい。

 


海岸線をもう数km下ったところで、やまちゃんにさよならを言った。何でも一語一文で表す彼のユニークな説明方法は道中ずっと僕たちの心を釘づけにした。

別れのスナップ写真をとった後、再び僕らは自転車で出発した。竜飛岬まではたった30qだ。しかし、僕はまったく知らなかったが、フレッドが言うには、途中に日本で最大級のでかい坂の1つがあるそうだ。マグロ漁船が連なって停泊している小さな漁港をいくつか通り過ぎ、やがて、目的地の前に横たわる上り坂10qのつらい単調な仕事の出発点に着いた。二人ともギアを下げていたので、トップにするには深く踏み込まねばならなかった。


フレッドも僕も40代半ばには相応だが、20年前にニュージーランドを駆け巡った頃のような脚力は持っていない。息切れさせる山道を登って行くにつれて、僕はさらにギアを下げたかったけれど、妙なことにギアがもうなかった。僕は『先に進んで休む』やり方を取った。一方、フレッドは頂上までただゆっくりとクランクを90分間以上回し続けた。
やっと二人が頂上に辿り着いた時、そこには北海道、日本海、目的地の竜飛岬のあっと驚く景色があった。幸運にも、この先の下り坂は速く、約8qだった。サイクリングの法則が親切にも規定するとおり、登ったものは必ず降りなければいけない。

 


吹きさらしの本州の最北端、竜飛岬は容赦のない所だが、美しい所だ。僕たちは暗くなる直前にくたくたに疲れて、汗びっしょりで到達した。巨大な岩に囲まれた小さなプレハブ建物が津軽海峡亭という旅館で、その晩の僕らの宿になった。旅館のオーナーは最初、汗まみれの二人連れ外人を止めるのを渋ったが、すぐに、丁寧な標準語を話す僕たちに打ち解けてくれた。

ずいぶん年を取った彼の母親は夕べの団らんの間ずっと青函トンネル(本州から北海道まで津軽海峡の下を穴を掘って進む)についての話をしてくれた。驚異の人間による工学技術と日本の先端技術の証として、トンネル工事の10年間、竜飛という小さな村を繁栄させたが、トンネルの完成後、3,000人もの労働者は村を去り、再び静かな状態になった。フレッドと僕は夕食のかに、てんぷら、プラムのような味のくらげ、その他の海の珍味を楽しみながら、静かにおばあさんの昔話に聞き入っていた。


一人の地元の漁師が何かを降ろしに旅館にやって来たことが幸運に恵まれることになった。僕がその人に話しかけると、「明日の朝、漁に出かける」と言った。そこで、僕たちをいっしょに漁船に乗せて連れて行ってもらえないかと頼んだ。漁師は一瞬考えてから、「いいよ」と言ってくれた。明朝4時半に会う約束をし、津軽海峡へ出て、巨大マグロ釣りを体験することにした。
こんなことはめったにないチャンスなので、僕らはほんとうにわくわくした。その日の大奮闘で疲れ果てていたし、翌日のことでかなり興奮していたので、9時ごろに寝た。

 



翌朝、暗闇の中で狭いマグロ漁船に乗り込んだ時、漁師の田村さんが僕たちに最初に言った。「落ちたら死ぬよ。」僕らは気をつけることを約束した。その間、救命胴衣を与え、海に出るにつれて、漁船の後方にしゃがむように言った。

僕らにとっては幸運にも、また今日も輝かしい朝で、海は比較的静かだった。田村さんが言うには、2年前に300kgのマグロを獲ったことがあるが、平均して80−100 kgぐらいだそうだ。彼が投げ入れを認められた釣り糸は6本だけで、それらはオレンジ色のブイの回りに巻きつけられ、生きたイカがえさとして付けられた。彼がすべての釣り糸を投げ入れ終わるまでの間、僕らはじっと見つめて、首を長くして待った。釣り糸は海流に漂い、僕らは当りを祈った。5時間経った後もまだ祈っていたが、その時、田村さんはこれから港まで僕たちを送り届けると言った。「マグロが釣れるのは毎日のことではないんだ。たぶん、今日はマグロの休みの日なのだろう。だから付近には1匹もいないんだ。」僕らは彼のユーモアに笑ったが、漁船を動かして、獲物なしに帰ることは損害になるとわかっていた。しかしながら、何匹かのでかい魚が浮上したり、飛び跳ねたりするのを現に見たので、その日は巨大マグロに出会うもうあと一歩のところだった。


旅館に戻って荷物をまとめた僕らはママさんにさよならを言った。そして、静かな海岸道路を下り、風雨にさらされた往年の木造住宅を通り過ぎて進んだ。道路沿いに、細長い昆布が並べて広げられ、天日に干してあった。きっと、何種類かの日本独特の海産物を作るのに使われるのだろう。この土地の人々はとても勤勉で、よく働く。環境面や経済面の困難な状況の下で生活しているが、彼らはいつも親切で、笑みを絶やさない。



僕たちは自転車をこぎ続け、12qくらい行ったところに、難しい名前のちっちゃな町を見つけた。そこに小さな鉄道の駅があった。僕らは自転車を分解して列車に乗り、東京に戻る飛行機に乗るために青森へ向かった。僕たちの小さな旅は終わってしまったけれど、未定の次の旅まで僕たちが持ちこたえるのに十分な陽射しと笑顔と満足感を与えてくれた。